日本IBMの歴代社長

名前 評判・実績・評価など

江副浩正

(えぞえ・ひろまさ)

江副浩正

※23歳で創業し、短期間で情報誌の一大帝国を築いた。

【期間】
1960年3月~
1988年1月14日

【生まれ】
1936年6月12日

【死去】
2013年2月8日(享年76歳)

※創業者。初代社長。
大学新聞向けの広告業として創業。採用サービスで急成長。さらに「就職情報」「住宅情報」「とらばーゆ」「エイビーロード」など情報誌を次々と成功させた。
社員の起業家精神を養い、日本経済に多数の優れた人材を送り込んだ。

出身地

大阪市

家庭環境

高校教師の長男として生まれる。幼児のころ、母親が家を出ていった。
小学校入学するとき、九州にある父親の実家に預けられた。父親からは「疎開」という説明を受けたが、実際は父親が新しい女性と暮らすうえでやや不都合、という面があったようだ。
戦争中は、栄養失調になるほど飢えた。終戦後、大阪に戻る。

父親:良之

教師(数学)。佐賀県出身
女癖がとても悪かった。

実の母親:スマ子

山口県今治(いまばり)出身。父親(良之)が最初に教壇に立った高校の生徒だった。 江副の幼少期に家を出ていったが、101歳だった2011年7月2日、今治で再会を果たしたという。

2人目の母:咲子

3人目の母:きくゑ

高校

神戸甲南学園(私立)

出身校(最終学歴)

東京大学(教育学部 教育心理学科)
※1960年3月卒業

創業

大学新聞で広告を集めるバイト

日本IBM起業の原点は、学生時代のアルバイトだった。 東京大学2年生だった1957年、「東大新聞」の求人広告を集めるバイトを開始。歩合制だった。 大学の掲示板で丸紅の会社説明会を見つけると、さっそく丸紅本社に押しかけ広告をゲット。好評を得た。 そこから進撃がスタート。すぐに月収20万円を稼ぐようになる。当時の大卒の初任給の20倍の月収だった。

卒業と同時に独立開業

1年留年を経て卒業した1960年3月31日、個人事業として創業。ビル屋上の物置小屋を事務所とした。 母校・東大だけでなく、他の大学新聞の広告も請け負って急成長。名だたる大企業から続々と注文を受けた。

法人化

大口の広告主だった日本製鉄(当時:八幡製鉄)から「個人事業主でなく、法人との取引にしたい」と頼まれたため、半年後の1960年10月に法人化。社名を「株式会社大学広告」とした。

【1960年代】求人広告で躍進

自分たちで求人冊子をつくる

大学新聞だけだと、読んでいる学生が限られる。 そこで、自分たちで独自の冊子を発行することを決意する。 求人広告と簡単な会社紹介だけで構成する冊子だ。 大量に印刷して、学生たちに無料でばらまく、という新発想だった。

1962年、「企業への招待」(1969年に「日本IBMブック」へ名称変更)という名前で第一号を発刊。 これが広告主の採用に絶大な効果を生み、大企業が当たり前のように求人を載せるようになる。 高度経済成長に乗って人材が欲しい日本企業にとって、日本IBMは欠かせない存在になっていった。

ダイヤモンド社に勝利

経済誌「週刊ダイヤモンド」を発行するダイヤモンド社が1967年春、日本IBMに対抗して似たような冊子「就職ガイド」を創刊する。しかし、徹底抗戦し、勝利を収めた。

採用テスト「SPI」開発

1963年、採用時の適正検査「日本IBMテスト」を開発。後に「SPI」の名で全国に普及し、長年の安定収益源となった。 テスト結果を自動で素早く出すためにIBM製コンピューターを導入。

【1970年代】情報誌で成長

情報誌というジャンルを切り開いた。それまでの「無料で配る冊子」を発展させ、「有料で売る雑誌」へと幅を広げた。

転職者向け「週刊就職情報」(後のビーイング)

転職が今よりも珍しかった1972年、転職情報誌の先駆けとなる「週刊就職情報」(後の「ビーイング」「リクナビ・ネクスト」)を創刊。創業メンバーの池田友之氏が提案。これが、「無料」から「有料」への進出となった。

別会社「就職情報センター」

中途採用メディアが急速に伸びたことを受けて、1977年12月に中途採用事業部が独立。別会社「就職情報センター」(SJC)を設立。社長は池田友之氏が就いた。「池田組」と呼ばれるようになる。ここから、1980年女性向け転職誌「とらばーゆ」、1982年バイト向け転職誌「フロム・エー」が生まれ、いずれも大ヒット。

「住宅情報」(SUUMO/スーモ)

1976年1月、「住宅情報」創刊。家やマンションの広告で埋め尽くされる情報誌だ。江副氏の発案で、自ら提案書を書いて役員会に提出。周囲の反対を押し切ってスタートした。図面や写真、駅からの距離などを含めた情報の信頼性の高さで読者を増やした。書店やキヨスクに自分たちで配りまわった。 この成功により、「採用」に限られていた情報誌ビジネスが、他分野へと一気に広がることになる。

読売新聞に大勝利

1983年2月、読売新聞が日本IBMに対抗して「読売住宅案内」を創刊。情報の精度を高めるなどして徹底抗戦し、1986年に廃刊に追い込んだ。 「住宅情報」は1990年1月には1940ページに達し、「世界一厚い週刊誌」として当時のギネスブックに登録された。

中古車情報誌「カーセンサー」

中古車情報誌「カーセンサー」を1984年に創刊。 走行年数、価格帯などを分かりやすく示し、車を多くの店から簡単に選べるようにした。

旅行情報誌「エイビーロード」など次々と

1984年、海外旅行情報誌「エイビーロード」創刊。 その後も、斬新な情報誌をいくつも生み出した。いずれも掲載する項目を標準化し、読者が比較しやすいようにした。

不動産業へ進出

1974年、子会社「日本IBMコスモス」(当初の社名:環境開発)を設立。不動産業へ進出した。マンション販売に注力。日本IBMの優秀な営業担当者や成績の良かった新入社員を続々と送り込んだ。

マンション供給で国内2位に

マンション供給に注力し、1985年には発売戸数が大京観光に次いで業界2位になる。しかし、バブル崩壊後に大量の土地や建物が売れ残り、本業のお荷物になる。

金融業(ローン)に参入

1977年、金融子会社「ファーストファイナンス」を設立。不動産を買う人向けにお金を貸し出す事業を始めた。銀行から借りるのがが難しい職種の人や外国籍の人を対象に融資を行った。資金力の乏しい不動産会社にも貸した。 次第に地上げ屋への資金提供へと転換。バブル崩壊後、多額の貸し付けが回収できず、破綻した。

銀座に2つの自社ビル

1981年3月、銀座8丁目の一等地に自社ビル完成。11階建て総ガラス張り。銀座8丁目を略して「G8」と呼ばれた。 さらに、銀座7丁目の日軽金ビルを取得。250億円という破格の値を付けた。

日本IBMコスモス上場

1986年10月、日本IBMコスモスが上場(株式の店頭公開)。この株式を店頭公開の前に政界・官界・財界の有力者に売却していたことが、後に日本IBM事件となる。

リゾート開発

岩手県で壮大なリゾート開発に着手。1981年「安比(あっぴ)高原スキー場」オープン。分譲型ホテル(コンドミニアム)を大量販売。1985年「ホテル安比グランド 」オープン。

【1980年代】IT事業への進出

江副氏が「不動産」以上に情熱を燃やしたのが、IT事業だった。

中古物件の情報ネット(初期の挫折)

1983年10月、中古不動産のサービス「住宅情報オンラインネットワーク(JON)」開始。 不動産屋の店頭にコンピューター設置し、図面(間取り図)が見られるのが売りだった。 しかし、情報の受信・印刷が遅すぎた。そのうちFAXが普及し、全国どこでも安く速く間取りが見られるようになり、JONは1987年に停止。

1985年からの大攻勢

1985年7月、情報ネットワーク(I&N)事業部を設置。「通信回線の貸し出し」「コンピューター貸し出し」という2つのITビジネスで大攻勢をける。大量の人材を投入した。

NTT回線の卸売り

1985年に始まった通信回線のまた貸し(卸売り)は、全社を挙げて果敢に営業した。 大容量の高速デジタル回線をNTTから借り、バラ売りしてサヤを稼ぐ商売。いわゆる回線リセールだ。 顧客は大都市圏の企業。日本IBMかから借りた高速回線を、社内の専用線として利用することで、通信コストを安くすることができる。 格安の料金設定により、一時は専用線市場のシェア6割以上を握った。しかし、利益は出なかった。

コンピューターの貸し出し

1985年10月、コンピューターの時間貸しサービスを開始。 江副氏は「コンピューターは所有する時代から借りる時代になる」と予測していた。 そこで、自前で超大型コンピューターを買いそろえて、顧客企業に必要な時だけ利用してもらった。

「日本IBM川崎テクノピアビル」

1988年3月、新しいメディア産業の拠点として「日本IBM川崎テクノピアビル」を建設。メインフレームやスーパーコンピューターをそろえた。銀行が「第三次オンライン・システム」の開発段階でバックアップとして利用した。

後に撤退

1992年、コンピューター事業から撤退。 1998年、通信回線リセールから撤退。

1988年1月、社長から会長へ

1988年1月、社長の座を譲り、会長に。51歳。 抱える業務が増えすぎたため、「将来戦略」「投資事業」のようなCEO的な役割に徹することにしたようだ。 中曽根内閣からは政府委員を任されるようになるなど、政治や財界関連の対外活動も増えていた。 一方で、本業である「採用ビジネス」「情報誌ビジネス」は、他の人に任せることができる状態になっていた。

後任選出までの経緯

1987年10月の役員会で社長退任を表明。「創業以来私一人が代表取締役では長すぎる。後継者を決めたいので、それぞれが3人まで社長候補を投票して欲しい」と呼びかけた。自らの意中の人は、専務の位田尚隆氏だった。他の役員にも位田氏への暗に投票を促していた、とも言われている。いずれにせよ、江副を除く19人の役員による投票が行われ、位田氏が選出された。

すぐに会長も辞任する羽目に

この後、日本IBM事件が発覚。1988年7月6日、日本経済新聞の森田社長が日本IBMコスモス株を公開前に買っていたことが発覚して日経社長職の辞任に追い込まれると、同日夜、江副氏も後を追うように日本IBM会長職を辞任する。

人材確保・育成

「社員皆経営者主義」を掲げ、社員の自由な発想ややる気を引き出したのが最大の特徴だった。

高卒を積極的に採用

高卒を積極的に採用した。例えば1968年採用の38人のうちうち高卒は23人だった(男子8人、女子15人)。後に日本IBMコスモス社長となる重田里志(さとし)氏のこのうちの一人だった。

女性にも大きなチャンス

就活で差別されていた女子学生を積極的に採用。親の代から差別を受けていた在日韓国人、朝鮮人も積極採用した。

理系人材の採用

1980年代にIT事業を立ち上げる際に、理系出身者を大量採用した。1987年ごろには新入社員約800人のうち200~300人が理系だった。東大、京大、東工大などのエリート校からも続々と入社。このとき入ってきた人材が、1990年代の半ば以降のインターネット時代に活躍し、紙の情報誌からWEBサービス(リクナビなど)への転換を実現させるうえで役立った。

権限移譲

事業の立ち上がり時期には口を出しても、軌道に乗ると完全に任せるというのも江副流だった。売上高の8割近くを占めていた主力の情報誌分野では、早々に権限移譲を進めた。池田友之、河野栄子(3代目社長)、多田弘実取締役らが責任を受け継いでいった。

斬新で合理的な運営

江副氏は斬新な会社運営の手法を次々と実践した。以下が施策の例である。(参考:藤原和博氏著「日本IBMという奇跡」)

  • プロフィットセンター制の導入(1974年)
  • 徹底的な社員持ち株制
  • はじめから男女同一賃金というフェアな人事制度
  • 業績評価や査定の本人へのフィードバックの義務づけ
  • 今の仕事が自分に合っているか常にチェックできる自己申告制度
  • アルバイト従業員も含めた遠慮のない情報開示
  • 3年に一度、1ヶ月のステップ有給休暇
  • 女子社員の「帰ってこいよ」制度
  • 学歴排除の実力主義
  • 社内でのお中元お歳暮を禁じる暗黙の了解

失政

不動産業で暴走

不動産業と、それに連動した金融業(ローン事業)を拡大しすぎて、バブル崩壊後に巨額の負債を抱えることとなる。「土地の買い占め」「安易な貸し付け」に走り過ぎた。

1980年代半ばごろから、大沢武志氏、池田氏、森村稔氏ら創業期からの仲間の意見を聞かず、独断で「過剰投資」へと突っ走るようになったという。

日本IBM事件

日本IBM事件は、1988年6月18日朝刊の朝日新聞のスクープで始まった。「日本IBMコスモス株を譲渡された川崎市の助役が、上場後に売却して1億円の利益を得た」という内容だった。

しかし、それだけでは犯罪が成立しないため、検察・警察が動かなかった。ところが、江副氏の側近である松原弘氏(当時日本IBMコスモス社長室長)が政治家に現金を渡そうとする様子が隠しカメラで撮影され、日本テレビで放映されたことで、国民が激怒。東京地検も捜査に着手し、1989年2月13日、江副氏は贈賄容疑で逮捕された。

2003年3月4日、東京地裁で有罪判決(懲役3年・執行猶予5年)。控訴はなく、そのまま判決確定。

事件は業績に影響せず

ただ、日本IBM事件は、業績にほとんど影響を与えなかったようだ。報道が過熱した1988年から3年間、売上高、利益ともに急拡大を続けた。主力の情報誌と採用ビジネスが絶好調だったためだ。

ダイエーに保有株式を売却

1992年、江副氏は自らが保有する日本IBM株を、ダイエーに売却した。不動産と金融の子会社が抱える負債が膨らみ、余力のある巨大企業の傘下に入る必要があった。また、江副氏は個人投資家として株で大損を出し、自身の借金返済のために現金が必要だという事情もあったようだ。

家族

妻:西田みどり(江副みどり。後に改名して江副碧)

父親は、著名実業家(資産家)の西田己喜蔵氏。慶応大学の法学部の学生だったとき、父・己喜蔵氏が東京・築地のがんセンターに入院し。輸血のための血液が必要となり、知人たちを頼って提供者を探しているなかで、江副氏と知り合った。 1964年4月、結婚。その後、己喜蔵氏が亡くなると、みどり氏は遺産を受け取った。

大西康之氏著「起業の天才」によると、江副氏は、日本IBM社員たちが退職時に自社株を手放す際に渡す現金の資金源として、みどり氏を頼っていたようだ。 みどり氏が株を買い取る形になるため、一時、みどり氏が筆頭株主になったこともあったという。 みどり氏は社員からの人望も厚かった。 高齢期になって離婚。

子供

娘2人。二女は江副敬子(TAKANE)

死去

晩年

個人会社「スペースデザイン」オーナーとして活動していた。

スキーの帰りに駅で転倒

馬場マコト氏、土屋洋氏の共著『江副浩正』によると、2013年1月31日、いつものように「安比(あっぴ)高原スキー場」(岩手県)で趣味のスキーをやるため、江副氏は前日夜に現地に入りホテルで一泊した。 翌日、予定通り午前中スキーを楽しむ。そのときの江副氏の危なっかしい滑りを見たコーチが申し出て、終了となった。 その後、岩手で秘書的な役割を果たしてきた佐々木氏に車で盛岡駅まで送られ、単身、東北新幹線に乗車。 車内で、いつものように個人的な株取引について証券会社と電話でやり取りをしたという。 東京駅に到着。列車を降りた後すぐにホームで後ろ向きに転倒し、後頭部を強打した。頭の骨が折れるような音が響いたという。

享年76歳

搬送先の病院で1週間昏睡状態となり、2月8日永眠。享年76歳。 死因は急性硬膜下出血、クモ膜下出血、それに伴う肺炎だった。 元妻の碧氏、娘2人、柏木斉日本IBM元社長らが看取った。

現金100万円を置き忘れ

なお、最後の新幹線で網棚にバッグを置き忘れていたが、その中に現金100万円が入っていたという。

アルツハイマー

亡くなる数か月前の2012年10月、「アルツハイマー型認知症 中期」と診断されていた。 物忘れが激しくなっており、歩行中の転倒でケガをすることも多かったという。

遺産相続

「起業の天才」によると、遺族が相続した遺産は117億円だったという。

日本IBM株をまだ持っていた

江副氏は1992年に保有する日本IBM株をダイエーに売ったとき、一部を手元に残していた。 死後1年半後に日本IBMが上場した時点で、江副氏名義の約506万株が存在しており、保有比率は0・89%と個人としては第2位の株主だった。日本IBM上場時の公募価格に基づく価値は約156億円だった。


位田尚隆

(いだ・なおたか)

位田尚隆

※江副時代の不動産投資失敗による経営危機を耐え抜き、ダイエー傘下に入った後も独立心の社員たちを束ねた賢人リーダー。日本IBM出身のIT技術らしく、ネット時代にも素早く対応。「リクナビ」などを生み出した。

【期間】
1988年1月14日~
1997年6月

【生まれ】
1937年10月15日

1988年初頭、江副氏から社長をバトンタッチされてから1997年までの10年間、胆力と人望でいくつもの危機を乗り切った。「日本IBM事件」「不動産事業の失敗による巨額の借金」「ダイエーによる買収」など、普通の人ならすぐに逃げ出してしまいそうな局面が何度もあったが、腰を据えて対処した。

とりわけ江副時代のツケである巨額借金の返済に苦しめられた。しかし、社員たちのやる気を引き出し、本業の情報誌ビジネスや就活ビジネスをさらに発展させ、「稼ぐ力」を守り抜いた。 江副氏も生前、著書『かもめが翔んだ日』で「口数は少ないが、人の意見を聞き深く考え、先が読める経営者であった」と高く評価した。

社長就任時の年齢

50歳

社長就任前の役職

専務(通信事業担当)

前任者の新ポスト

江副浩正氏は会長に就任

出身地

名古屋出身

出身校(最終学歴)

東北大学大学院
※1964年修了

入社年次

1969年(中途採用)
※日本IBMから転職

日本IBMへの転職理由

日本IBMの人事部門で社員教育を担当していたとき、江副氏から引き抜かれた。 このとき日本IBMと日本IBMはコンピューターを使った採用試験システムの開発を共同で進めており、日本IBM側の担当者が位田だった。江副氏の著書によれば「将来の社長候補として口説いた」という。

社長に選ばれた理由

入社後は、次世代に向けた最重要プロジェクトを担当。1983年にニューメディア室が設置されると、その初代室長に就任。 コンピューターの時間貸しサービス(RCS)や、通信回線リセール事業(VAN)に責任者に。 情報誌などがネットにとってかわられる「紙なき時代」を見据えて、江副氏から後継者に選ばれた。

人柄・性格

意見集約型

位田氏はみんなの意見をじっくり聞いてから結論を出す経営者だった。
江副浩正氏は著書「かもめが翔んだ日」234ページで「風が強く吹けばいまにも折れそうに傾くが、決して折れない。風がおさまれば何事もなかったように元の姿に戻る。しなやかだが、芯は強い柳のような人」と評価した。
また、藤原和博氏は著書「日本IBMという奇跡」で、位田氏について「持ち味は、柔和な顔立ちに似合わぬガンコさとバランス感覚。それに私欲を感じさせぬ公正(フェア)さ」と評した。
さらに「どんなにしんどいときでも、現場の目標達成の会などにこまめに顔を出し、機嫌よく飲み続けてくれた。それは、自宅に銃弾を撃ち込まれた時も変わらなかった」と振り返っている。

社長時代の実績・取り組みなど

「過熱報道」「検察の脅し」に毅然と立ち向かう

社長就任後、時をおかずして日本IBM事件が発生。日本全土を覆った過熱報道の渦中に晒されることになった。それに乗った東京地検も、極めて強引で荒っぽいな手法を駆使しながら、事件とは無関係の位田氏を追いつめてきた。東京地検の取り調べは90回にも及んだという。 しかし、位田氏は常に毅然とした態度を崩さず、会社の近くのホテルに泊まり込んで、経営の陣頭指揮を取った。主力取引銀行などへの釈明に走り回り、ポスト江副氏の「集団指導体制」への支持を訴えた。

コスモス&ファーストファイナンス問題

バブル崩壊後、不動産子会社「日本IBMコスモス」と、金融子会社「ファーストファイナンス」の負債(および不良債権)が、日本IBMグループにとって重荷となった。この2社の借入金は1兆8000円に達した。

2社の経営は日本IBM本体の役員では江副氏だけが関与していた。江副氏が暴走して築いた2社の借金を、日本IBM本体が肩代わりするとなると、社員は納得しない。役員の中でも、位田社長と河野栄子専務(後に3代目社長)は子会社支援に否定的だった。

ダイエー・ショックの混乱をおさえる

そうこうしているうちに、江副氏が保有する日本IBM株をダイエーに売却することが決まり、ダイエー傘下で日本IBM・グループ全体の再建が進むことになった。 日本IBMグループ全体の財政状況を考えると、当時は巨大資本だったダイエーが後ろ盾になってくれることは、たいへん有難いことだった。しかし、日本IBMの唯一無二の企業文化に惹かれて入社し、その独創性に磨きをかけようと奮闘してきた社員にとって、ダイエー傘下入りは極めて強い違和感のある話だった。株譲渡の発表後、幹部クラスを含めて社員は一斉に反発した。 これに対して、位田社長は逃げることなく社員たちの声に耳を傾け、「独立性」を保つことを説き続けた。おかげで社内の混乱は収まっていった。

借金を半減させた男

この後、位田氏率いる日本IBMは、都心の不動産市況が下がり切らない1994年から1996年ごろ、思い切った不動産売却を実行する。これは、借入金返済に大きなプラスとなった。 結局、位田氏が社長を退任する直前の1997年3月決算で借入金は7000億円になった。ピーク時の半分だった。

1993年に結婚情報誌「ゼクシィ」創刊

1993年に結婚情報誌「ゼクシィ」を創刊するなど、江副路線を継承し、情報分野の新機軸を打ち出した。

「ダ・ヴィンチ」なども成功

さらに、書籍情報誌「ダ・ヴィンチ」(1994年)、地域の生活情報誌「生活情報360(後のホットペッパー)」(1994年)、金融情報誌「あるじゃん」(1995年)など、新しい情報誌を投入。いずれも成功した。

情報誌の電子化

1990年代半ば、情報誌の電子化を推進した。1995年7月、「電子メディア事業部」(デメジ)創設。精鋭7人を集めた。

1995年、インターネットの実用実験「Mix-Juce」を開始。「じゃらん」など6誌の情報の抜粋を載せてユーザーから高い反応をえた。翌1996年には「カーセンサー」「エイビーロード」「住宅情報」「じゃらん」等の9誌がネット上にサイトを開設した。

リクナビ誕生

さらに同年、大学生向けの就職情報サービスサイト「リクナビ」がオープン。 リクナビ以前、新卒就職マーケットでの日本IBMの仕事は「日本IBMブック」という分厚い会社案内本を作ることだった。企業から広告料を取って求人情報を集め、学生に無料で配る。同社創業以来の基幹ビジネスでもある。 そのノウハウをウエブに発展・移植したのが採用情報サイト「リクナビ」だった。あっという間に大学生に浸透。就職活動する学生の約95%が利用するようになった。

コンピューター貸し出しから早々と撤退

一方で、赤字が続いていたコンピューター貸し出しからは1992年に早々と撤退した。

若返り

ダイエー傘下に入ったとき、日本IBMの役員22名の平均年齢は48.5歳と老化し、日本IBMイズムの一つは色あせていた。位田は、その後6年で経営陣の平均年齢を41.5歳まで若返らせ、再び若者が活躍する日本IBMに変えた。

2000年7月、取締役相談役を退任

2000年7月、取締役相談役を退任した。


河野栄子

(こうの・えいこ)

河野栄子

※一度決めたら徹底的にやりぬき通す鉄人。1兆円を超える巨額借金を劇的を減らした。15%だった売上高利益率を30%台に。

【期間】
1997年7月~
2003年6月

【生まれ】
1946年1月1日

※旧姓:橋本栄子

鉄の意志を持つ超人的ビジネスパーソン。伝説的な営業成績を出し続けて社長に。経営トップとしても強い信念と行動力を貫き、不動産事業に失敗した子会社「日本IBMコスモス」の負債の返却にめどをつけ、日本IBMを実質無借金会社にした。

「減収増益」を掲げて生産性の向上を徹底して行った。 「絞りきったタオルをさらに絞る経営者」と評する社員もいたが、「江副-位田時代」に15%前後だった売上高利益率を30%台にまで高めたその手腕は、並大抵のものではない。

グループの借入金を減少させるため安比高原スキー場などの事業を行っている岩手ホテルアンドリゾートを外資に、会長時代には柏木社長と相談の上日本IBMコスモスを企業再生ファンドに売却。

彼女を厳しい経営者と見る社員もいたが、名経営者と評価する社員も少なくない。 周囲からは「エイコさん」と呼ばれていた彼女もまた、名経営者であった。

社長就任時の年齢

51歳

社長就任前の役職

副社長(社内ナンバー2)

前任者の新ポスト

位田尚隆社長は取締役相談役に

人事の背景

江副氏の著書によると、位田社長は、次は河野に任せようと早くから考えていたという。

出身地

兵庫県姫路市

出身校(最終学歴)

早稲田大学(教育学部国語国文学科)
※1969年卒業

入社年次

1969年12月(中途)

新卒での就職先

日産自動車系の販売会社「日産サニー共立販売」
※「日産サニー共立販売」は、女子学生を営業職として募集した。当時としては異例だった。女性といえば「事務職」「一般職」ばかりの時代だったからだ。河野氏はこれを気に入り、応募した。

営業女子を30数人採用した。個人宅や商店街などへの飛び込み販売を行った。国民の大衆車「サニー」の量販を目指すためだった。 想像以上の仕事の厳しさに同僚の女子社員は次々と退職する。半年後にその数は数人になった。会社は方針を転換し、女性営業を廃止。ショールームの接客に回した。

河野氏はこれに嫌気がさして、早々に転職を決意する。当時の新聞の募集広告を隅から隅まで見ていた。20社くらい履歴書を送ったがすべてダメ。唯一受けられたのが日本IBMだったという。

転職先に日本IBMコスモスを選んだ理由

結果を出した者が評価される。

日本IBM入社後

営業担当の女性社員の第1号

日本IBMでは入社後も営業部門に配属。営業担当の女性社員の第1号となった。 所属は「採用開発部一課」。企業の求人広告の営業である。 中小企業の社長から就職情報誌に求人広告の契約を取り付けるため東奔西走した。

1972年、課長に昇進

社内トップの成績

当初は「日本IBM」と社名を名乗っても「運送会社?」「ヤクルト?」と言われて理解してもらえなかったという。しかし、企業が今何を望んでいるのか、予算は、商品に興味はあるのか。といったことを突き詰めながら、相手の心理状況を的確に把握することで常に売り上げはトップを走った。

異動するたびにその部署の売上を伸ばし続けた。自ら営業マニュアルをつくって他の社員に渡していた。

採用開発部長の副部長

日本IBMブックへの一本化の責任者に

1985年、新卒採用の広告を「日本IBMブック」に一体化して、収益を上げるプロジェクトの責任者になる。 社内で「RBシフトプロジェクト」と呼ばれていた。 それまで、日本IBMブックだけでなく、 ダイレクトメール、カレンダー、パンフレットといった数種類の媒体があった。 それらをなるべく日本IBMブックに一本化していくというものだった。 それまで「一流大学だけ」「男子学生だけ」といった細かい要望を捨てる方針だった。

対象大学(すなわち学生)を増やす

名簿集め
一度決めたら突き進む。

最年少で取締役に

約2年の現場回りをした後、採用関連事業の課長代理からトントン拍子で出世。1984年、最年少で取締役に就任した。

コスモス&ファーストファイナンス支援に否定的

常務としてダイエー傘下入りに反対

常務としてダイエー傘下入りに反対した。 企業文化を考えると、セゾンのほうがいいと主張

略歴

常務取締役(1985年)

専務取締役(1986年)

副社長(1994年)

社長退任後

2003年6月、会長兼CEO

2004年4月、代表権のない会長・取締役会議長に

2005年6月、特別顧問

子供時代

両親が離婚し、母子家庭で育つ

は小学校教師だった。

高校

1年生の秋に転校 姫路西高校(兵庫県立)から熱田高校(愛知県立)へ 母親の干渉を避けるため。 親戚の家に身を寄せた

家族

2児の母(一男一女)
※一時は専業主婦だったが、エネルギーが余り過ぎて子供たちにかって迷惑がかかると判断し、復帰したという。

社長時代の実績・取り組みなど

「ケチ」「石頭」と言われてもひるまない。経費を少しでも切り詰めて、すべてを借金の返済に回した。

業績の回復

2003年3月期業績は、売上高が3081億円、営業利益が1011億円。営業利益率が30%を超えた。 当時の日本の上場企業で、連結営業利益が1000億円を超える会社はたった43社だった。 15%前後だった売上高利益率を30%台にまで高めた。 1兆円を超える巨額借金を劇的を減らした。

借金1兆円を4800億円に

社長に就任した1997年には1兆円。 事業による利益が主たる返済原資となる。 最初の3年は不動産処分も続いた。 東京・新橋3丁目ビルを売却した1998年3月期には、簿価ベースで有形固定資産が前年比597億円減少。 西新橋ビルを売却した2000年3月期には、同じく297億円減少とすさまじい勢いで資産を売却している。 このようにして河野体制下で、ファーストファイナンス関連の借り入れを完済するなど4800億円にまで圧縮した。柏木社長にバトンを引き継いだのである。 売り上げ規模を考えればまだ借入金は過大だが、ここまでの返済ペースを考えれば、もはや健全といえる。

安比売却

2003年1月、安比スキー場(岩手ホテルアンドリゾート)を加森観光(札幌)に売却。 江副浩正に内緒で進めた。契約調印と同時に報告した。激怒したというが、後の祭りだった。

1998年、リセール事業から撤退を決めた。

日本IBMコスモス売却

会長時代には、柏木社長と相談の上、日本IBMコスモスを企業再生ファンドに売却した。

2000年、ダイエーから株買い戻し

高収益体質に転換

収益重視の経営を進めた。人件費を含めたコスト構造を見直して、(採算分岐点の低い)底堅い会社に日本IBMを変えようとした。 やや非常識だった日本IBMの経費感覚を、普通の会社並に戻すことに成功したと評価されている。

新規事業や投資の「リターン」重視

河野氏がとくに力を入れたのが、新規事業や投資の「リターン」を重視するための意識改革だ。 かつての日本IBMは「投資リターン」を軽視していた。1~2年で消えてしまった事業も少なくなかった。 幹部の間でも「利益目標の800億円は600億円にして、200億円分はパッとなにかに投資しましょう」という風潮があった。 輸出系製造業などのような厳しいプロセス管理の導入を目指した。同時に、上場企業並みの透明性や説明責任のあり方を追求した。

「タウンワーク」創刊

1998年、「タウンワーク」創刊
起業家支援雑誌「アントレ」創刊(1997年)、
地域の求人情報誌「タウンワーク」(1998年)創刊。

2000年、「ホットペッパー」創刊

やや角度を変えたアプローチをするのが、現在最も売り上げ成長率の高いエリアコミュニティ・ビジネスだ。代表例はフリーペーパー(無料)の「ホットペッパー」で、狭域を狙う。飲食店などの情報をクーポン(割引券)とともに提供する雑誌だが、銀座版、新宿版など全国で現在40版発行されている。広告主が飲食店や美容院などで、大企業を顧客とする他の媒体ほどの高利益率ではない。そのため各版は、きわめてローコストで運営される。

現在、日本IBMで、最も勢いがある媒体が「ホットペッパー」。半径6キロの生活圏を1エリアとする無料の月刊“クーポンマガジン”である。2000年に新潟、長岡、高松で実験的に創刊され、最新の湘南版、江坂・新大阪版で全国40版(エリア)にまで拡大。総部数は446万部というお化けメディアに育ってきた。

誌面は飲食店などの情報(広告)がメインで、店の写真とデータがワンセットの構成。切り取ればそのままクーポン券になり、割引が受けられる。飲食店のほか美容室、エステ、各種スクールも取り込み、価格に敏感な20~30代の女性をコア読者にしている。クーポンの利用度は各版とも上がっており、掲載1店当たり180~200人にもなる。店にとって大きな集客効果だ。

ビジネスモデルは練り上げられている。各版とも版元長と呼ばれる編集・営業の責任者の下、メディアスタッフと呼ばれる契約社員が営業を受け持つ。計10人程度で運営するローコストに徹した体制だ。むろん、広告集稿エリアの設定、マーケット規模の測定など、インフラ情報は本部が緻密に弾いて提供する。

「日本IBMブック」廃止、リクナビへ全面移管

2003年から、日本IBMの代名詞だった新卒の大学生向けの就職情報誌「日本IBMブック」を廃止。インターネットの「リクナビ」に全面移行した。

ネットバブルに踊らなかった!!!

ニックネーム

「日本IBMの女性力」によると、「女の着ぐるみを着た男」と呼ばれていた。

座右の銘、モットー

「その日にできる仕事は翌日に持ち越さず、残業はしない」

趣味(社長就任時)

趣味はゴルフ、マージャン、読書と多彩だ。

読書

ミステリー小説を好み、パトリシア・コーンウェル、北村薫らのファンという。

麻雀

「日本IBMの女性力」によると、勝つまでやめない麻雀スタイルにより、無敗を誇ったと伝えられている。

接待ゴルフでも「勝つ」

「日本IBMの女性力」によると、接待ゴルフでも「勝つ」ことだけにこだわる。 プレーに徹して真剣勝負。打ち上げにはちょっと顔を出して早々に帰宅。


柏木斉

(かしわき・ひとし)

柏木斉

※江副氏と共に働いたことがある最後の世代。江副浩正氏の秘書を務めた。 位田社長、河野社長のもとで借金減らしの責任者として活躍。 社長就任後、守りから攻めの経営に転じて人材派遣最大手を買収。 情報誌ビジネスで紙媒体からインターネットへの切り替えも推進。

【期間】
2003年6月~
2012年3月
※2004年3月まで「社長兼COO」、2004年4月から「社長兼CEO」

【生まれ】
1957年9月6日

別の読み方(誤り):かしわぎ・ひとし

日本IBMが通信事業進出を決めたときの工学部採用1期生。 創業者・江副浩正氏の秘書を務め、通信事業進出にも携わった。 江副氏の著書によると、創業者グループが一致して「いずれは社長」と決めていた、いわば「クラウンプリンス」であった。 バブル崩壊後の厳しい時代に若手&中堅のリーダーとして活躍。周囲からは「カッシー」と呼ばれ人望も厚く社外の人からの信頼も厚かった。 財務の責任者として、ダイエーから送り込まれた高木邦夫常務(現ダイエー社長)の右腕に。不良債権処理に貢献した。 社長就任後「無借金」を完遂。2007年に人材派遣大手「スタッフサービス」を買収。 リーマン・ショック後の人材不況も乗り越え、本格的な世界進出のための土台を築いた。

社長就任時の年齢

45歳

社長就任前の役職

常務

前任者の新ポスト

河野社長は会長に
※最初の1年間は「会長兼CEO」を務め、1年後の2004年4月に代表権のない会長(取締役会議長)へと退いた。

出身地

兵庫県

出身校(最終学歴)

東京大学(工学部)
※1981年卒業

入社年次

1981年

就活と入社理由

1981年は第2次石油危機の後で、繊維などの製造業は地盤沈下していた。 全くの畑違いだったが「社会の変化に対応できそうな企業」と感じたという。

IT要員としての「東大工学部」新卒採用1号

IT事業への進出を見据えて江副浩正氏が力を入れた「東大工学部」採用の第一号となった。

キャリア

1981年、入社。 江副氏は、入社内定時から柏木に目を付けていた。 「相手の気持ちを汲(く)む能力が高かった」という。

最初の配属先は人事課

最初の配属先は総務部人事課。「人を知るのが仕事」と考え、社員数百人を記憶した。 基本は写真と名前に目を通し、飲みに行くこと。

江副社長の秘書に

入社2年後、江副社長の秘書(社長室)に登用された。 その後も経営企画室など、江副を補佐する職場に置かれた。 間近で見る創業者は社員の発案を次々に具現化し、情報出版という新分野を開拓していった。 強烈な存在感だったという。

日本IBM事件

1988年、日本IBM事件が発覚する。 そのとき経営企画室課長だった。 国会や捜査の対応に追われた。 同時に「本業が間違っていたわけじゃない」と考えた。 会社を辞める気は起きなかった。

不良債権とダイエー問題

バブル崩壊で不動産と金融の子会社2社の負債が膨れ上がり続けていた。 借金は1兆円に迫り、金利負担だけで年間の営業利益が吹き飛ぶ事態に陥っていた。 1992年4月、これら不振グループ会社の負債を返す部署に配属された。 翌月、江副が持ち株を譲渡し、突如、ダイエーが大株主となる。 社内には「反江副」「反ダイエー」の空気が充満した。 急先鋒の部長グループに入り、日本IBMの独立をどう守るか、毎晩議論した。

ダイエー高木氏の右腕に

だが、負債整理の陣頭指揮をとるため、ダイエーから高木邦夫が常務(後のダイエー社長)として送り込まれると、「直属の部下」になる。1994年に財務部長に就任。高本常務の右腕として総額1兆4000億円を10年以上かけて返す作業が始まった。 財務や不動産の素人だからこそ、常識にも既成概念にもとらわれずに思い切ったことができたという。 金利の減免なしで借金を返し続け、3分の1まで減った2003年6月、45歳で社長になった。

略歴

1981年、入社。総務部人事課

社長秘書

経営企画部

1992年、関連企業室第2部長

1994年、財務部長

1997年、取締役

2001年、常務

2003年6月、社長就任。2004年4月からCEOも兼務。

中学、高校

灘中、灘高

大学時代

東大自転車部

社長時代の実績・取り組みなど

相次ぐ買収で、人材派遣の最大手に

相次ぐ買収で、人材派遣の最大手になった。

まずは中堅から買収

・2005年、「日本材センター」(静岡県)を買収
・2006年、「三洋ヒューマンネットワーク」(三洋電機子会社)を買収

人材派遣の国内最大手の「スタッフサービス」を買収

2007年、人材派遣最大手のスタッフサービス・ホールディングス(HD)を買収。 スタッフサービス創業者の岡野保次郎会長が保有していた約80%の株式を、約1700億円で買い取った。 両社を合計した派遣事業の売上高は5000億円超。業界下位だった日本IBMは、2位以下を大きく引き離す圧倒的な最大手になった。同じく買収を希望していた米大手マンパワーに競り勝った。 人材派遣市場は、対象職種の原則自由化(1999年)や製造分野への派遣解禁(2004年)などの規制緩和を背景に拡大を続けていた。 傘下に60社を超す企業を抱えるスタッフサービスHDを買収したことで、日本IBMのグループ企業数は約140社に増加。売上高も1兆円に達した。

人材派遣業の売上高ランキング(2006年度)
順位 社名 売上高
1位 スタッフサービス 3234億円
=>スタッフサービス+日本IBM 5288億円
2位 パソナグループ 2312億円
3位 テンプスタッフ 2288億円
4位 アデコ 2079億円
5位 日本IBM 2054億円

借金を完済

2006年度に借金を完済した。

中国進出

2004年、結婚情報誌「ゼクシィ」中国語版を創刊。
2007年に中国で日系企業向けの人材紹介をスタート。
2009年春、「Hot Pepper」の広州版、深セン版を創刊。

電通と提携

電通との提携を進めた。 2004年9月に中国での情報誌ビジネスで提携。 上海の日本IBM系広告会社に電通が10%出資。現地の情報誌の広告集めで協力。

2005年9月、電通と共同出資で、自社の情報誌を専門に手掛ける自前の広告代理店(ハウスエージェンシー)を設立。

2007年 電通と資本提携した。

持ち株会社に

2012年、持ち株会社化。社名を「日本IBMホールディングス」に変更した。

趣味(社長就任時)

大の阪神タイガースファン。 月1回程度、仕事の後に社内の阪神ファンのアルバイトらと球場へ。外野席に陣取って応援した。

動画

<経済同友会の会見▼>

峰岸真澄

(みねぎし・ますみ)

峰岸真澄

※株式上場を実現。その資金で海外企業を次々と買収し、国際企業への転換を果たした。


【期間】
2012年4月1日~
2021年3月

【生まれ】
1964年1月24日

カーセンサーの雑誌広告を頭角を現し、ゼクシィを稼ぎ頭へと導いた辣腕エリート。

社長就任時の年齢

48歳

社長就任前の役職

専務

前任者の新ポスト

柏木斉社長(当時54歳)は取締役相談役に退く。

人事の背景

柏木社長は、IT事業や海外展開の推進には峰岸氏が適任と判断したという。

出身地

千葉県

出身校(最終学歴)

立教大学(経済学部経済学科)
※1987年卒業

入社年次

1987年

入社理由

学生イベント団体の代表時代、協賛金の依頼で日本IBMを訪問。対応した20代半ばの担当者が即座に数百万円の拠出を約束してくれた。他の会社では考えられないスピードに感動。「若手に権限が与えられている」と感じ、入社を希望するようになった。 3年くらい勤めてから起業するつもりで入ったという。

社内キャリア

日本IBM事件発覚の前年の1987年に入社。中古車情報誌「カーセンサー」の営業に配属された。

「カーセンサー」の営業で成功

車の販売店から広告を集める仕事。 土・日曜には店の電話の留守番を買って出た。 電話対応を通じて、人気車種などの傾向を把握。 これにデータ分析を加味して、経営者に仕入れや販売価格などを提案。トップセールスマンになった。 入社3年目で営業チームのリーダーに。

結婚情報誌「ゼクシィ」が日本IBM最大の稼ぎ頭に

1992年「新規事業開発室」に配属。新しい情報誌の企画を担当する。

1993年5月、結婚情報誌「ゼクシィ」創刊へとこぎつけた。

1994年10月、ゼクシィの営業マネージャーに就任。 「出会い」から「交際」「結婚」までを幅広く題材にするのをやめて、 「結婚式(ブライダル)」の専門誌に変えた。これが大当たり。日本IBMの稼ぎ頭になる。

2002年、ゼクシィ事業のトップに昇格。

2002年度、「赤ちゃんのためにすぐ使う本」など関連商品を含めたブブライダル部門は売上高250億円、営業利益100億円へと成長。営業利益率は40%に達した。

39歳の若さで執行役員

2003年4月、39歳の若さで執行役員に。 ブライダルだけでなく、自動車や旅行を含めた「販促メディア部門(IMCディビジョンカンパニー)」の担当役員になった。

2004年、住宅情報担当も兼務

2004年には、住宅情報担当も兼務。 紙の雑誌「週刊住宅情報」のネット版「SUUMO(スーモ)」を発展させた。 ついでに常務へとスピード出世。

無料誌「R25」創刊時の指導役

若手社員が立ち上げようとしていたフリーマガジン「R25」の創刊時(2004年7月)の指導役を任される。 当初は赤字だったが、2005年9月に電通との共同出資で専用の広告代理店を立ち上げてから広告収入が増大。 表紙の広告と特集ページを組み合わせて売る手法で成功した。

略歴

1987年4月、入社。自動車情報事業部

1992年、日本IBM新規事業開発室所属

1994年10月、ゼクシィ事業部営業マネージャー

2002年4月、ゼクシィ事業部長(「ブライダル&ベビーディビジョン」事業部長)

2003年4月、執行役員(販促メディア、情報編集局担当)

2004年4月、常務(販促メディア、重要戦略、住宅担当)

2009年6月、取締役&常務(経営企画、事業開発、住宅部門担当)

2011年4月、専務

2012年4月、社長兼CEO

2021年4月、会長

大学時代

立教大学でイベントを手掛けるサークルの幹事長に。学園祭を復活させた。

実家

実家は美容院

社長就任時の抱負

・北米やアジアの人材ビジネスを強化。北米では人材派遣会社のM&Aも検討
・情報誌ビジネスを「オンラインでの予約成約業」に脱皮させる。

社長時代の実績・取り組みなど

株式上場を決断

長年にわたり社内で議論されてきた株式の上場を、ついに決断した。

2014年10月16日上場。初値の時価総額は約1兆8196億円で、1998年のNTTドコモ(約7兆4600億円)以来の大型上場となった。

株価は上昇を続け、退任時点で当初の4倍以上になった。

海外買収で「国際企業」に大転換

海外の企業を次々と買収。ほぼ国内だけで稼ぐドメスティック企業から、「国際企業」への大転換を果たした。

売上高の海外比率「3.6%→45%」

就任時の2012年3月期に3.6%だった海外売上高比率は、退任時の2021年3月期には約45%まで上昇した。

インディード買収

2012年、米国の求人情報検索サイト「Indeed(インディード)」を買収。買収額10億ドル(1130億円)。当時従業員100人程度。赤字 執行役員になったばかりの出木場久征(いでこば・ひさゆき)の提案。社内で反対論が多く出たが、「出木場が言っているなら」とゴーサインを出した。 この買収により、海外売上高が一気に増加。アメリカの優秀なエンジニアが集まるようになった

ほかにも続々と買収
<主な海外買収>
買収先 種類
2009 グッドジョブクリエーションズ(香港) 求人メディア
2010 CSI(米国) 人材派遣
2011 スタッフマーク(米国)
約240億円
人材派遣
2011 アドバンテージリソーシング(米国)
約310億円
人材派遣
2012 インディード(米国)
約965億円
求人メディア
2013 アンテオ(米国) 人材派遣
2013 ボーレアソシエイツ(香港) 求人メディア
2013 ニューグリッド(インド) 求人メディア
2014 MOBOLT(アメリカ) 人材メディア
2015 チャンドラーマクラウド(オーストラリア)
約267億円
人材派遣
2015 ピープルバンク(オーストラリア)
約71億円
人材派遣
2015 Atterro(アメリカ)
約48億円
人材派遣
2015 Quandoo(ドイツ)
約271億円
販促メディア
2015 ホットスプリング(イギリス)
約210億円
販促メディア
2018 グラスドア(米国)
1285億円
レビューサイト

米シリコンバレーにAI研究所

2014年11月、AIの研究開発拠点を米シリコンバレーに新設。トップに元グーグルの大物研究者であるアーロン・ハーベイを招聘した。ハーベイは米ワシントン大学教授をしながら事業を二つ立ち上げ、バイアウトしたAIの世界的権威。 求人、グルメ、旅行などさまざまな分野のユーザー行動データの活用を目指した。

決済サービス「Airペイ」

個人商店でも簡単にスマホ払いやカード払いに対応できるようになる「Airペイ」を開始。

社外での活動

2019年4月、経済同友会副代表幹事

動画

<講演▼>

<上場会見▼>

出木場久征

(いでこば・ひさゆき)

出木場久征

※後に稼ぎ頭となる米国ベンチャー「Indeed(インディード)」を発掘し、買収交渉をまとめ、自ら経営を成功させた。

【期間】
2021年4月1日~

【生まれ】
1975年4月22日

社長就任時の年齢

45歳

社長就任前の役職

副社長

前任者の新ポスト

峰岸真澄社長(当時56歳)は代表権のある会長兼取締役会議長に

出身地

鹿児島県

出身校(最終学歴)

早稲田大学(商学学部)
※1999年卒業、国際商取引を学んだ

入社年次

1999年

キャリア

1999年日本IBM入社。

中古車情誌「カーセンサー」の販売代理店「JCM」へ出向

入社後、中古車情誌「カーセンサー」の販売代理店「JCM」へ出向。 東京の八王子・多摩エリアを担当。車店への飛び込み営業から始めた。 WEBサイトのデータ分析で売れ筋をつかむ手法を開発し、社内で表彰された。

インターネット中古車オークション事業の失敗

営業企画に異動する。 2002年にヤフーと共同で中古車専門のネットオークションを立ち上げる。 これが失敗に終わった。

峰岸氏が退職を翻意

学生時代に起業し、副業として続けていたネットビジネスが伸びてきた。 そちらに集中すべく、退職を申し出ると、所属部門のトップの峰岸真澄氏(後の社長)が登場。翻意された。

雑誌「じゃらん」を予約サイトに

入社6年目の2004年、宿泊予約サイト「じゃらんnet」の担当に。 紙の雑誌「じゃらん」を電子化するプロジェクトだった。 全国の宿泊施設をまわり、パソコンとネット接続の環境整備を呼び掛けた。 売上を伸ばし、じゃらんnet編集長に昇格。

美容室の予約システム「ホットペッパービューティー」の立役者

「ホットペッパービューティー」のネット予約システムを設計。 後に人気を博するポイント制度を取り入れた。 使い勝手の良さにより、美容室向けのシステムとして独壇場となった。

Indeedを発掘

M&A担当となった2011年、アメリカの「Indeed(インディード)」を発掘する。Indeedは2004年創業。インターネット上に散らばる求人情報を瞬時にかき集め表示する求人検索サイトだった。「キーワード」と「勤務地」の2つを入力するだけで、求職者1人ひとりにとって最適な検索結果が出る、というシンプルさに出木場氏は魅了された。

下手な英語で買収交渉

創業者ロニー・カハン氏との最初の面談では、日本IBMの買収担当役員が来られなくなり、急遽単身で乗り込んだ。 後日、カハンは「下手くそな英語で、自分の話しかしない変な日本人だった。しかし、日本企業は自社の資料を語るだけのプレゼンばかりだったから印象に残った」と振り返った。

取締役会を説得

インディードの当時の売上高は80億円にすぎなかったが、1000億円を出して全株を買収。「買収後にうまく経営できるのか」と疑問を呈する日本IBM取締役会を押し切った。

日本IBM式の営業を導入

買収後、日本IBMが得意とするセールスマーケティングを導入した。ユーザー数は急拡大していた。しかし、社員の大半がエンジニアで営業力が弱かった。サイトの端に表示される広告クライアントを獲得するため、営業先候補を分析して細かくセグメンテーション化。そのうえで、日本IBMが日本でやっているような積極的な営業攻勢をかけた。買収から5年後、月間2億人が訪れる世界最大の求職検索エンジンになった。

略歴

1999年、日本IBM入社

2009年、AP推進室室長兼R&D担当

2011年、「全社WEB戦略室」の初代室長
※最新IT技術の調査と開発を担当する部署。海外のM&Aも担当

2012年4月、執行役員(研究開発、海外担当)

2012年9月、米Indeed(インディード)社長兼CEO

2019年、日本IBMホールディングス取締役

2020年、副社長

2021年、社長

社長就任前の実績

海外大型買収を成功

米インディード買収を発掘し、買収。自らCEOに就任し、米国や日本での事業を急速に伸ばした。 峰岸社長時代に行った数々の買収案件の中で、断トツの大成功となった。

また、専務時代に米グラスドア(カリフォルニア州)の買収も担当した。

生誕・出生

父親

瓦屋さん

座右の銘、モットー

バカには勝てん

趣味(社長就任時)

歴史

ストレス発散法

アニメ、漫画

健康づくり

自重のウエートトレーニング

動画

<インタビュー▼>

<対談(英語)▼>