日本IBMの歴代社長

5代目社長・稲垣早苗
 (いながき・さなえ)

草創から発展期へと進む1950~1970年代の日本IBMを牽引した中心人物の一人であり、「日本IBMのみならず日本の情報産業の礎を築いた」と評価される実力者。 パンチカード・システム時代の創業期から、国産情報産業の確立期に至るまで、常に先頭に立った。

社長の在任期間

1962年~1975年

生まれ

1910年1月1日(静岡県吉原市の造り酒屋の家に生まれる)

死去

1999年3月31日(肺炎のため)・享年89歳

社長就任時の年齢

52歳

社長就任前の役職

生産担当常務

前任者の処遇

鈴木信治社長の後継として就任

社長就任人事の背景・経営

IBM1401の日本生産問題など、外資規制や技術導入交渉の最前線に立ち、日本側の利益とIBM本社の要求を調整した実績が評価された。 国内コンピューター産業育成のため、IBM基本特許の供与を取りまとめたことは歴史的意義が大きい。

内示

詳細な内示時期の記録はないが、通産省との交渉を成功させた1960年前後より、次期社長候補として名前が挙がっていた。

出身地

静岡県(吉原市)

出身校(最終学歴)

明治学院(卒業後、資生堂に入社)

入社年次

1950年(日本IBM再開時に営業課長として参加)

入社理由

就職活動

資生堂に入社したものの体調を崩して退職。その後、紹介により「日本統計機」へ転職。 日本統計機は、IBMパンチカード・システムが敵国資産として凍結されたことに伴い、 暗号解読など軍事用途で設立されたメンテナンス会社であった。 この経緯を経て、戦後復活した日本IBMに参加した。

略歴

1950年の日本IBM再開時に営業課長として参画。生産担当常務などを経て1962年社長。

IBM1401・1440生産交渉

通産省とIBM本社(バーゲンストック副社長)との対立を収め、日本企業への基本特許供与への道を開いた。 これが後の日本コンピューター産業の発展基盤となった。

幼少期

造り酒屋の子息として1910年に生まれ、静岡県吉原市で育つ。

社長就任時の抱負

日本の情報化社会の基盤づくり

国際的な情報処理技術を日本へ導入し、民間・公共の大規模システムを支える企業へと日本IBMを成長させることを掲げた。

社長時代の実績・取り組みなど

東京オリンピック(1964年)への全面協力

競技記録の集計・速報をオンライン処理で実施。 軽井沢の射撃競技を含む全会場を結び、国内初の大規模オンライン・データ処理を成功させた。 聖火が消えるとほぼ同時に全競技の公式記録集を完成させ、IOC会長ブランデージに手渡された。

NHK放送業務のコンピューター化

照明機材、出演者、スタッフなどのスケジュール管理をオンライン化し、ペーパーレス化を推進。 このプロジェクトを率いた三井信雄は後に日本IBMへ入社し、副社長に昇格。大規模案件を通じて人材育成と事業拡大を実現した。

性格・人柄

明治生まれの気骨と欧米的合理主義を併せ持つ人物として知られる。 椎名武雄会長は、稲垣が気に入らない案件には承認印を逆さに押し、 出張には秘書を伴わず常に一人で向かったと述懐している。

逝去・葬儀

1999年3月31日、肺炎のため死去。享年89歳。 葬儀・告別式は4月3日、東京都品川区荏原の霊源寺にて、 日本IBMと稲垣家の合同葬として執り行われた。

6代目社長・椎名武雄
 (しいな・たけお)

日本IBMの高度成長期を象徴するリーダー。1975年に45歳で社長に就任し、1993年まで長期政権を築いた。 「日本化路線」「TQC導入」「漢字処理の国産化」など、日本市場への最適化を徹底。 外資系 IBM に日本型品質管理を導入し、本社方針に影響を与えるまでに至った。

社長の在任期間

1975年2月~1993年1月

存命期間(生没年)

1929年5月11日~2023年4月19日(93歳)

出身地

岐阜県関市

生い立ち

実家は吉田観音のすぐ近く。幼少期は病弱で、関市立旭ヶ丘小学校では1年の3分の1ほどを欠席したとされる。 母・照子が病弱だったため、主に祖母に育てられた。

父親

父・威(いさむ)。岐阜県関市出身。 家業は金属洋食器・刃物関連の製造業を営んでいた家系で、椎名家は地域でも知られる商家だった。 父は比較的早くに亡くなり、椎名武雄の進路・学業にも影響を与えたとされる。 ※父の会社経営の詳細は父の経歴であり、椎名本人の職歴ではないため本項では記載しない。

母親

母・照子。岐阜出身。創業家の一族にあたり、実践女子学園を卒業。 病弱であった時期が長く、離婚後は祖母の養女となったという経緯がある。 のちに健康を取り戻し、長寿を全うした。

学歴

中学・高校

1942年4月、慶應義塾普通部に入学。

大学

1951年3月、慶應義塾大学工学部 機械工学科卒業。

留学

バックネル大学(米ペンシルベニア州)工学部に編入。 父の「日本人のいない小規模校で英語を鍛えよ」という助言を背景に選んだとされる。 卒業直前、IBMが日本に工場を建てるという話を聞き、就職を志望した。

就職活動と入社

米国IBM本社に直接応募したが、日本人採用は行っていないと回答された。 しかし「日本IBMなら採用の可能性あり」との案内があり、1953年6月、日本IBMへ入社。 当時の社長・水品浩と椎名家の縁も採用の後押しになったとされる。

日本IBM初期の経験

入社当時の日本IBMは社員約200名の小規模企業。大森の修理工場が初任地だった。 その後、南糀谷の新工場の内部レイアウト設計、千鳥町工場長などを担当。 パンチカード・システムの急速な普及により業務は倍増し、会社は急成長した。

異例のスピード出世

31歳で工場長、33歳で取締役、38歳で副社長という異例の昇進スピード。 米国本社からの評価も高く、率直で妥協しない姿勢がIBMの文化と相性が良かったとされる。

社長就任(1975年)

1975年、45歳で社長に就任。 当初3年間は稲垣早苗会長が代表権を持ち、椎名が全権を握ったのは1978年以降。

主な実績・取り組み

日本化路線

国産メーカーが台頭する中、「日本市場に最適化したIBM」を徹底。 漢字処理の国産化、国内仕様製品の開発を強力に推進した。

営業改革(特約店制度)

直販中心だった体制を見直し、特約店制度を導入。販売網を大幅に拡大した。

TQC(総合的品質管理)の導入

IBMとしては異例のTQCを導入し、「顧客満足(CSP)」を掲げて全社改革を断行。 数年のうちに企業風土を刷新し、IBM本社からも高く評価された。

新聞制作のコンピューター化

朝日新聞・日本経済新聞と共同し、紙面制作システムを構築。 第一次石油ショックを契機に本格導入され、新聞制作の近代化に貢献した。

成果

1987年、日本IBMは売上高1兆円を突破。 1989年、米国で開催された世界幹部会合で、椎名が「TQC成功」を講演。 日本IBMモデルは本社にも採用されるなど、国際的にも影響を与えた。

死去

2023年4月19日、93歳で死去。

7代目社長・北城恪太郎
 (きたしろ・かくたろう)

IT革命初期の日本IBMを牽引し、アジア・パシフィック全域を統括するまでに至った国際派経営者。 技術・語学に精通し、グローバル戦略を日本市場へ橋渡しした指導者として高く評価されている。

社長の在任期間

1993年1月~1999年12月

生誕・出生

1944年4月21日、茨城県百石町(現・結城市)生まれ。

生い立ち

父親

職業などの詳細は公表されていないが、教育熱心で子の進路に理解のある人物とされる。

母親

家庭全体が英語教育に理解があり、幼いころから語学へ触れる機会があったといわれる。

子供時代

学習意欲が高く、科学・語学・技術分野に強い興味を持って育った。 茨城県で幼少期を過ごし、のちのグローバル志向につながる基盤を形成した。

出身校(最終学歴)

慶應義塾大学 工学部(1967年卒) カリフォルニア大学バークレー校 修士課程修了(1972年)

社長就任時の年齢

49歳

新卒での就職先

日本アイ・ビー・エム(1967年入社)

入社年次

1967年

入社理由

工学専攻としてコンピューター産業の到来をいち早く予見し、技術者として最前線に立つことを望んでIBMを選んだ。

略歴

1967年、日本IBM入社。 システムエンジニアとしてスタートし、米国本社勤務・海外経験を経て頭角を現す。 1986年に取締役、1993年に代表取締役社長に就任。 1999年12月にはIBMアジア・パシフィック プレジデント兼日本IBM会長となり、アジア全域の統括責任を担った。

キャリア

・都市銀行向け大型システムの導入を牽引 ・日本IBMの金融・通信インフラ事業の強化に貢献 ・海外勤務経験を生かし、米本社との橋渡し役を果たす ・アジア16カ国・約10万人規模の事業統括責任者に就任

留学

1970年代初頭、カリフォルニア大学バークレー校へ留学し修士課程を修了。 この経験が国際的視野の基礎となった。

社長就任前の実績・評価

都市銀行向けの先端システム提案で強いリーダーシップを発揮。 グローバル戦略を理解しつつ日本市場に最適化できる稀有な存在として評価された。

学生時代

慶應義塾中等部・高校から慶應義塾大学へ進み工学を専攻。 技術・語学いずれにも強い関心を示し、海外留学に積極的であった。

人柄・性格

温厚で誠実、しかし決断力に富むスタイルとして知られる。 「全力を尽くせば、神様が次の道を用意してくれる」という姿勢を人生哲学として語ることが多い。

哲学・理念・考え方

大企業とベンチャー企業の協創を重視し、革新の源泉は多様性にあるとの考えを持つ。 教育・人材育成にも強い関心を示し、後年の大学改革へとつながった。

家族

公表されている範囲では、3人の子を持つ父親としての一面を持つ。

社長就任時の抱負

「成熟市場の日本からIBM本社へ新たな価値を発信する」ことを掲げ、 日本市場の特性を踏まえた独自戦略を目指した。

社長時代の実績・取り組みなど

グローバル展開の強化

アジア・パシフィック統括に就任し、IBMのアジア戦略の中心を担った。 成熟市場と新興国市場のバランスを取る「地域分散型戦略」を推し進めた。

教育・社会貢献

経済同友会代表幹事として、教育改革・若手人材育成・地域連携などの社会課題に取り組む。 国際基督教大学理事長として大学改革にも深く関与した。

ニックネーム

「ミスター外資」などの異名で語られることがある。

座右の銘、モットー

「全力を尽くせば、神様が次の道を用意してくれる」

趣味(社長就任時)

読書、英語学習、社会貢献活動

社外での役職

経済同友会代表幹事、国際基督教大学理事長、社外取締役など、多数の公的役職・教育関連ポストを歴任。

著書

経営・キャリア論・教育論などの書籍を多数執筆。

8代目社長・大歳卓麻
 (おおとし・たくま)

ハードウェア中心のビジネスから、サービス・ソリューションやアウトソーシングへと急速に構造転換していく時期に日本IBMを率いた経営者。女性登用やダイバーシティ推進を掲げ、在宅勤務制度なども含めた働き方改革を進めたことで知られる。

社長の在任期間

1999年12月~2008年3月

生誕・出生

1948年10月17日、広島県生まれ。

社長就任時の年齢

51歳(1999年12月就任時)

社長就任前の役職

常務取締役(サービス事業担当)などを経て社長に就任。

前任者の処遇

前任社長の北城恪太郎は、IBMアジア・パシフィック・プレジデントを兼務するとともに、日本IBMの代表取締役会長に就任した。

社長就任人事の背景

1990年代末、世界的にハードウェア販売からサービス・ソフトウェア、アウトソーシングへとITビジネスの重心が移るなか、日本IBMも構造転換を迫られていた。サービス事業を統括していた大歳をトップに据えることで、事業ポートフォリオの転換と経営改革を一気に進める狙いがあったとされる。

出身地

広島県

出身校(最終学歴)

東京大学工学部卒業

入社年次

1971年(日本アイ・ビー・エム入社)

入社理由・初期キャリア

大学卒業後、日本IBMに入社。コンピューター産業の成長期に営業として都市銀行などの大口顧客を担当し、システム提案・導入の最前線で経験を積んだ。その後、サービス事業やアウトソーシング関連ビジネスの責任者として頭角を現す。

略歴

1971年 日本アイ・ビー・エム入社。営業畑を中心にキャリアを重ね、サービス事業担当の常務取締役などを歴任。1999年12月、代表取締役社長に就任。2008年4月には会長を兼務し、2009年1月からは代表権のない会長となる。2012年5月、最高顧問に就任。

社長就任前の実績・評価

サービス事業やアウトソーシング分野の拡大を主導し、「ポスト・メインフレーム」時代の収益源づくりに貢献したと評価された。また、ガースナー体制下の米IBM本社とも連携し、日本市場の構造変化を踏まえたビジネスモデル転換を進めた。

人柄・性格

構造改革を辞さないタフさと、人材・組織面への配慮を兼ね備えたバランス型のトップとして語られることが多い。ITの専門性と経営感覚を結びつけ、「経営とITを個別に考える時代ではない」というメッセージを繰り返し発信した。

哲学・理念・考え方

「経営とITを個別に考える時代ではない」という言葉に象徴されるように、ITを単なるコスト要因ではなく、経営戦略と一体で考えるべきだという姿勢を一貫して強調した。ハードウエア中心の売り切り型モデルから、顧客の業務そのものを預かるサービス型モデルへの転換を、日本IBMの将来像として掲げた。

社長就任時の抱負

ハードウェア依存から脱却し、サービス・ソフトウェア・アウトソーシングを柱にする「新しい日本IBM」への転換を目指すこと、日本発の価値提案を通じてグローバルIBMにも貢献することなどを打ち出した。

社長時代の実績・取り組みなど

構造改革・サービス事業へのシフト

メインフレーム中心のビジネスモデルから、システム構築、運用受託、アウトソーシング、コンサルティングなどのサービス事業へ軸足を移した。ハード売上の落ち込みと日本市場の縮小という逆風の中で、事業構成の組み替えに取り組んだ時期でもある。

ダイバーシティと働き方改革

女性登用を積極的に進め、社内にダイバーシティ委員会を設置。性別や国籍にかかわらず活躍できる組織づくりを掲げた。また、在宅勤務制度の導入・拡大など、IT企業らしい柔軟な働き方の整備にも力を入れた。

日本市場への対応

国産ベンダーとの厳しい競争、IT投資の抑制、景気後退などの要因から、売上高はピーク時と比べて縮小を余儀なくされた。一方で、銀行・保険・製造など基幹産業向けの長期アウトソーシング契約を獲得し、収益基盤の安定化を図った。

社長退任後の活動

会長・最高顧問として日本IBMに残ったほか、複数の上場企業で社外取締役や社外監査役を務めた。情報通信関連の審議会や経済団体の活動にも関わり、ITと経営の関係についての講演・提言を行った。

名言

「経営とITを個別に考える時代ではない」